「清少納言は紫式部と会ったことがない」説は本当なのか? 平安の女流作家たちの繋がり
日本史あやしい話50
■女だと証明するため、陰部を見せつけた?
清少納言が宮仕えをいつ終えたのかも、その後の消息も明確ではないが、兄である清原致信との関わり合いで特筆すべき逸話が伝えられているので、ひと言書き添えておきたい。それが、1017年のことであった。
この兄・致信とは、道長四天王として武芸に秀でた人物としても知られた藤原保昌の郎党であった。何がしの利権をめぐる闘争に巻き込まれたようで、源頼親(頼光の兄弟)が送り込んだ頼光四天王に殺害されている。
その殺害現場に、あろうことか尼僧姿で同宿していたのが、妹の清少納言であった。兄に続いて彼女も殺されかけたが、ここで機転を利かせて起こした行動が、なんと、自身の陰部をさらけ出して女であることを証明しようというものであった。
尼僧姿では男女の区別も付きにくかったのだろう。女なら殺されずに済むと考えたようである。その咄嗟の判断が功を奏して、命拾いしたのだとか。実話かは疑わしいが、機転の良さばかりか、大胆さにも驚かされてしまう。
■和泉式部らとのつながり
さて、ここまで読んできて、アッと気が付いた方もおられるのではないだろうか。殺された兄・致信が仕えた保昌というのが、かの和泉式部の夫であったことを。つまり、清少納言は和泉式部とも、不思議な縁で繋がっていたことになるのだ。
また、清少納言の姉が藤原道綱母の兄・理能の妻だったから、『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母とも親戚だったということになりそう。さらには、『更級日記』の著者・菅原孝標女が道綱母の姪だったことも書き添えておこう。
つまり、清少納言は、前述の紫式部ばかりか、和泉式部、藤原道綱母、菅原孝標女など、当時活躍した女流作家たちとも、不思議な縁で繋がっていたことになるのだ。
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