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太平洋戦争で米英軍を驚愕させた「砲身なき巨砲」【98式臼砲】

日本陸軍の火砲~太平洋戦争を戦った「戦場の神」たち~【第14回】


かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。


        硫黄島戦でアメリカ軍に鹵獲された98式臼砲。左奥のスパナが乗っているのが発射台で、海兵隊員が右手を添えているのが砲弾の翼部分。なお、右手前の砲弾の弾頭部分は撤去されている。

         第1次世界大戦以降、日本は中国大陸への進出に注力。そしてついに1932年には、満州事変で日本が占領した地域に、肝入りで満州国を建国した。しかしその結果、ソ連との対立が強まり、以来、日本陸軍は、太平洋戦争前には中国大陸でのソ連軍との戦いに主眼を置いた兵器・兵力を整備することとなった。

         

         特にソ連軍との交戦に際しては、国境地帯に設けられたコンクリート製のトーチカや、時間と手間をかけて設営された堅牢な塹壕(ざんごう)陣地の破壊が求められた。しかし奇襲と浸透戦術を重視する日本陸軍としては、重砲では移動と展開に時間と労力が必要なため、歩兵を中心とした軽快な機動力に追随できないと考えた。

         

         そこで求められたのが、いわゆる「砲」に相当する発射装置が簡易な構造で設置・撤収が容易なうえ、射程はさほど長くなくてよい代わりに、大威力の砲弾を投射できる兵器である。そしてこのニーズに適応した兵器のひとつが、外装式迫撃砲(スピガット・モーター)だった。

         

         通常の迫撃砲は砲身から砲弾を発射するが、外装式迫撃砲は、砲弾の後部に開いた開口部に、発射台の上に設けられた砲身の代わりとなる発射筒を挿入。発射筒内で発射薬を発火し、砲弾はその力を受けて飛翔するという方式の兵器だ。

         

         1938年に制式化された外装式迫撃砲の98式臼砲は、一見するとロケット弾のような尾翼を備えてはいるが自己推進力を持たない砲弾を、木材を主用した簡便な台座を持つ発射筒から射出する構造を備えていた。このように、砲身がどこにもなく、砲弾と発射台だけで構成された兵器なので、「ム弾」という通称で呼ばれたりもしたという。

         

         発射される98式榴弾の重量は約300kgもあり、威力的には2530cm級の重砲弾に匹敵するとされた。射距離は最大で1200mと短いが、敵に接近して使用する奇襲兵器としては十分な射距離だった。

         

         98式臼砲は、太平洋戦争の緒戦となったシンガポール攻略戦やフィリピンの戦いでその威力を発揮し、イギリス兵やアメリカ兵を驚愕・恐怖させたと伝えられる。また、同戦争末期の硫黄島や沖縄の戦いでも、散発的にではあるが突如として撃ち込まれる大威力の砲弾が、アメリカ軍将兵に恐れられたという。

         

         だが惜しむらくは、分解が可能とはいえ98式榴弾は重くかさばるうえ、末期の島嶼(とうしょ)戦では日本本土からの補給も見込めないため、発射数に限りがあったことである。

         

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        白石 光しらいし ひかる

        1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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