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曹操と孫堅を連続撃破! 呂布より戦上手な董卓軍のエースは、なぜ不遇の扱いなのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第98回

 

190年の後漢(三国志の時代)の地図。作成/ミヤイン

 

 西暦190年に結成された、反・董卓(とうたく)連合軍。都を牛耳る暴君を倒そうと、名だたる勢力が董卓包囲網を築きあげたが、諸侯は兵を損ずるのを恐れて出撃をためらう。しかし「何をぼんやりしている。今こそ敵を討つべき!」と、ひとり気を吐いて西へ進軍したのが35歳の曹操だった。

 

■曹操と孫堅、こぞって敗れる

 

 ところが、そこへ立ちはだかったのが董卓軍の将・徐栄(じょえい)。これがじつに恐るべき敵だった。両軍は榮陽(けいよう)の汴水(べんすい)で遭遇して激突するが、曹操の大敗に終わる。軍勢は壊滅し、曹操自身も流れ矢を浴びて馬から落ち、従弟の曹洪(そうこう)に救われて逃げ延びるほどの惨敗。徐栄が追撃せず引きあげたのが連合軍にとって不幸中の幸いであった。

 

 もうひとり、これに前後して南から都方面を攻めたのが孫堅(そんけん)である。孫堅が梁(りょう)県に軍をとどめていると、ここでも徐栄の率いる大軍が押し寄せてきた。孫堅軍は数十騎で(数十騎に減らされ?)脱出をはかる。孫堅の赤い頭巾が目立つので、それを部下の祖茂(そぼう)が被って敵を引きつけ、かろうじて難を逃れた。曹操と同様、孫堅も敗れてしまった。

 

 兵力差は不明だが、ともかくも曹操と孫堅という、三国志における巨頭ふたりに苦杯をなめさせた徐栄。いったい、どんな人物だったのか気になるが、怪力だったとか、弓馬の術に長けたというような記述もなく、人となりはわからない。それもそのはず。この戦いの2年後、涼州から来た董卓軍の残党、李傕(りかく)・郭汜(かくし)の軍勢との戦いで命を落とし、早々に退場してしまうからである。

 

■董卓軍での徐栄の立ち位置は?

 

 それでは、董卓軍での彼の立ち位置はどうだったのか。参考までに、その後の戦いの経過を見てみよう。上記のとおり一度は敗れた孫堅だが、体勢を立て直し、陽人で董卓軍と再戦。見事リベンジを果たす。しかし、敵将は徐栄ではなかった。

 

 このとき董卓軍の指揮官は胡軫(こしん)、その副将は呂布であった。だが胡軫には将器がなく、呂布は彼に反感を抱いて足を引っ張る結果に。結果、軍はうまく機能せず、そこを孫堅軍に衝かれ、董卓軍は大敗。しかも都尉(とい)として随行していた華雄(かゆう)が孫堅に討たれている。このとき中郎将という職にあった徐栄の行動は不鮮明だ。別の持ち場にいたのだろうか。

西暦190年、洛陽周辺の地形図 作成:ミヤイン

 この戦いでは「陽人の戦い」が連合軍唯一の戦果で、ほぼ孫堅だけが活躍したようなものだ。呂布も「演義」のような華々しい武勇を発揮した形跡もない。

 

 ここでもし、徐栄が指揮をとっていれば・・・などと考えてみたくなる。いずれにせよ、この陽人の戦いで孫堅の武名があがったことで、徐栄の功績も、ある程度は確かなものとして証明されたことになる。「呂布を破り華雄を斬った孫堅」に勝ったのだから。

 

 ちなみに徐栄が戦死したとき、ともに軍を指揮していたのが胡軫だった。このときも胡軫はろくに働かず、さっさと李傕たちに投降した。そのためか、徐栄は敵中に孤立して戦死したとみられる。

 

 董卓が討たれたあと、彼は王允(おういん)や呂布と行動をともにしていた。もし生き残っていれば、もっと長く活躍が見られたかもしれないと思うと残念だ。同じ董卓軍にいた張遼などが呂布のもとで活躍し、成長した例もあるだけに。そうした政治的な立ち回りは苦手だったのかもしれない。

 

■三国志演義では華雄に手柄をとられる

 

 ご多分にもれず、徐栄も小説『三国志演義』では散々な扱いを受けている人物のひとりだ。正史・歴史書において、これだけの活躍を見せた彼は「演義」では一転、モブキャラと化している。

 

 出番は「第6回」の一ヵ所のみで、曹操軍が董卓を追撃して失敗したとき、伏兵としてその退路を断つ。曹操に矢を射当てて落馬させるが、夏侯惇(かこうとん)と一騎討ちになり、ものの数合で討ち取られてしまう。

三国志演義連環画より 夏侯惇に討たれる徐栄

 正史同様、曹操を窮地に陥れるのはよいが、その直後に夏侯惇に突き殺されるので印象は悪い。散り際はまだ正史よりマシかもしれないが、それ以外の見せ場がなさすぎる。それより、もっと哀れなのは、孫堅を撃退した手柄を華雄に奪われていることだ。

 

「演義」の架空の戦いながら、汜水関(しすいかん)の戦いで連合軍を苦戦させ、孫堅を敗走させる華雄の活躍は、歴史書に描かれた徐栄の功績にまったく合致する。

 

 しかも華雄は物語の主人公のひとり、関羽に斬られるという名誉ある戦死役まで与えられている。先に述べたとおり、正史(孫堅伝)の華雄は董卓軍の都尉とされるが、名前が一度出てくる程度の扱いである。

 

 参考までに、胡軫などはもっと悲惨だ。正史とはあべこべに、胡軫は華雄の副将として登場。孫堅軍を迎え撃つも、程普(ていふ)に討たれてしまう。

 

 この華雄が「演義」で、なぜかくも優遇されたか。その理由は不明だが、推測として「華雄」という名が後世の人の印象に残りやすかったのやもしれない。この派手で強い敵将を関羽が倒し、天下に名を轟かせるという役回りを負わされた。そして、結果として割を喰ったのが胡軫や徐栄ということになろう。

 

 ちなみに二次創作作品でも徐栄の扱いはよろしくない。漫画・横山光輝『三国志』では名前しか登場しないし『蒼天航路』では最初こそ名将扱いなのに、呂布に頭を握りつぶされてしまう。ゲームの初代『三國志』でも知力39、武力34という散々な評価。ただ近作では統率力に限れば80を超えて一流どころに近づくなど、正当な評価に落ち着いてきている。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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