藤原氏に「譲位」を迫られた円融天皇
紫式部と藤原道長をめぐる人々④
1月28日(日)放送の『光る君へ』第4回「五節の舞姫」では、まひろ(のちの紫式部/吉高由里子)が藤原道長(ふじわらのみちなが/柄本佑)に自らの素性を告白する様子が描かれた。その後、まひろは、憎んでやまない道兼(みちかね/玉置玲央)と道長との関係を知り、驚きのあまり倒れる。
■衝撃の事実がまひろに突きつけられる

京都府京都市の龍安寺。円融天皇によって新造された円融寺があった場所とされている。円融寺の創建は983(天元6)年3月という(『日本紀略』)。円教寺、円乗寺、円宗寺とともに「四円寺」として並び称され栄えた。鎌倉時代には仁和寺(京都府京都市)の一院となっている。
まひろは再会した藤原道長に、自分が藤原為時(ためとき/岸谷五朗)の娘だと本当の氏素性を告げた。道長も身分を明かそうとしたところ、まひろの父の友人である藤原宣孝(のぶたか/佐々木蔵之介)が通りかかったことで、2人の会話は中断された。
984(永観2)年8月、師貞親王(もろさだしんのう/本郷奏多)が即位。師貞親王は花山(かざん)天皇となり、それに伴い、親王の漢文の指南役を務めていた為時は、12年ぶりに官職を得ることとなった。
花山天皇が積極的に政治に参加する姿勢を見せると、右大臣・藤原兼家(かねいえ/段田安則)は焦燥する。仮に花山天皇が善政を進めようものなら、自身の孫である懐仁(やすひと)親王を天皇に就け、自らが摂政となる計画がそれだけ遅れることになるからだ。
そんななか、宮廷行事で舞を舞うことになったまひろは、見物する公卿たちの中に、道長の姿を見つける。そればかりか、その隣に、母を理不尽に殺害した藤原道兼が座っているのを見て驚愕した。道長が右大臣家の三男であること、そして、母を殺したのが道長の兄であることが判明し、あまりの衝撃にまひろは気を失ったのだった。
■藤原兼家に敢然と立ち向かった円融天皇
円融(えんゆう)天皇は、959(天徳3)年3月に村上天皇の第5皇子として生まれた。母は藤原師輔(もろすけ)の娘・安子。村上天皇の崩御後、冷泉(れいぜい)天皇が即位した頃から周囲で勃発した、熾烈な後継者争いに巻き込まれている。なお、母の安子は円融天皇が5歳の頃に亡くなっている。
藤原氏と左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)との対立の末、高明の娘と結婚していた第4皇子の為平(ためひら)親王の皇位継承は退けられ、冷泉天皇は藤原氏の推す第5皇子の守平(もりひら)親王、すなわち円融天皇に譲位した(『日本紀略』)。969(安和2)年のことである。
満10歳で即位した円融天皇の補佐をすることになったのは、祖父・師輔の兄・実頼(さねより)。冷泉天皇の時代には関白に就任していた人物で、円融天皇のもとでは摂政を務めた。
ところが実頼は就任後、わずか1年足らずで病没(『日本紀略』)。その後を師輔の長男である藤原伊尹(これただ)が引き継いだ。右大臣に就任し、朝廷の実権を握った伊尹だったが、彼もまた、就任から1年あまりで死去している。すると、今度は伊尹の弟である兼通(かねみち)と兼家、2人の兄弟の間で激しい主導権争いが勃発する。
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