藤原実資が道長と紫式部から一目置かれた「理由」
紫式部と藤原道長をめぐる人々③
祖父の実頼は藤原忠平(ただひら)の後継をめぐって弟の師輔(もろすけ)と争った人物で、藤原北家において小野宮流と称された一族の当主だった。
小野宮流が藤原氏の嫡流であるのに対し、弟・師輔の一族は傍流の九条流と称されており、彼ら一族は権力の主導権をめぐって対立していた。実資の実父である斉敏は九条流の勢いに押されて摂関に関与できず、参議以上に昇ることができなかった。
実頼の養子となり、一族の当主となった実資は、小野宮流こそ藤原北家の嫡流であるとの自負があり、特に九条流の藤原兼家の子である藤原道長には、時に手厳しく批判の声をあげ、対立することがしばしばだった。道長が強大な権力を手にして誰も反対意見が言えなくなるなか、実資だけは先例に基づいた筋道を押し通し、思いのままに振る舞う道長を制したという。絶対的な権力者・道長に阿(おもね)ることなく貫く姿勢が評価され、実資は「賢人右府」と称された。
煙たがることもありながら、道長は実資の実直さを信頼していたらしい。道長は1017(寛仁元)年に摂政の座を長男の頼通に譲っているが、この時、頼通の補佐役に任命したのが実資だった。後継者の側近として登用したのだから、道長は実資を完全に敵視していたわけではなさそうだ。
こうした逸話からは堅苦しい人物像をイメージしてしまいがちだが、実資は女好きという評判もあったらしい(『古事談』)。そんな実資の人柄を紫式部も面白がっていた様子で、ただ博識をひけらかすだけの堅物ではない、「実に立派である」(『紫式部日記』)と評していたようだ。
気骨ある政治家として長年、朝廷を支え続けた実資。1021(治安元)年に着任した右大臣には、死ぬまでの約25年間、在任した。亡くなったのは90歳。当時としては驚異的な長寿を全うした。
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