天皇の外戚として権力を固めた策謀家・藤原兼家
紫式部と藤原道長をめぐる人々①
同年に二人の兄である藤原伊尹(これただ)が体調不良を理由に摂政を辞任すると、官位としては下位だった兄の兼通が代行を命じられた。まもなくして伊尹が亡くなると、兼通は兼家を通り越して内大臣に昇進。政務の実権を握った。974(天延2)年には関白に任じられている。
ところが、977(貞元2)年に兼通は病に倒れた。
死期の近いことを悟った兼通は、従弟の頼忠(よりただ)を関白に指名し、兼家については、右近衛大将から治部卿(じぶきょう)に左遷したといわれる。そして兼家は昇進の道を絶たれ、蟄居する事態に陥った。
兼家が再び参内したのは、翌年の978(天元元)年6月のこと。兼通が亡くなったことで、有力者・兼家の存在感が高まったらしい。頼忠が太政大臣に昇進する一方、兼家は右大臣となり、娘の詮子を入内させることに成功。詮子が懐仁(やすひと)親王を出産すると、花山天皇が即位する頃には天皇の外戚となるべく、権謀術数(けんぼうじゅっすう)をめぐらせた。
懐仁親王が一条天皇として即位すると、兼家は天皇の外祖父となり、摂政にも任じられた。さらなる権力固めに奔走した兼家は、摂関の世襲制という道を切り拓いたのだった。
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