闇討ちされたドラ1選手が、ドラフト破りの末に迎えた悲劇の結末 プロ野球暗黒史【荒川事件 後編】
世間を騒がせた事件・事故の歴史
巨人の荒川博(あらかわひろし)打撃コーチの養子で、強打の遊撃手として1969年のドラフトの目玉だった早稲田大学の荒川堯(たかし)は、巨人かヤクルト(*1)以外の指名を拒否することを表明していた。ところが、交渉権を得たのは大洋(現・DeNA)だった。入団を即刻拒否した荒川は浪人を決意する。そして、大学卒業を目前に控えた1970年1月5日、事件は起きた。
*1 1969年の球団名は「アトムズ」、1970年は「ヤクルトアトムズ」。混乱を避けるため、便宜上「ヤクルト」で統一。
前編「強行指名を拒否したドラフト1位の新人は、なぜ襲われたのか?」の続き
■警察は“入団拒否に恨みを持つ者”の線を視野に
その夜、自宅近くで犬を連れて散歩していた荒川を、2人組が襲った。突然、棍棒のようなもので頭を殴打した。うずくまった荒川に、さらに犯人は顔や左手の甲をめがけて殴りかかり、逃走した。犯人に反撃したり、追いかけたりできないほどにダメージを被った荒川は、後頭部と左手中指の亀裂骨折で全治2週間と診断された。
実は、それ以前から荒川家には不穏な動きがあった。「野球のできない体にしてやる」「大洋に入らないとただでは済まないぞ」。こうした脅迫電話が何度もかかり、脅迫状の類も何通も届いていたという。ルール上、入団拒否は荒川の自由である。しかし、大洋入りを断固拒否した荒川の姿勢は、一部のファンの強い反感を買っていたのは事実だった。
警察は「大洋への入団拒否に恨みを持つ者の仕業」の可能性を視野に捜査を進めた。犯行の状況からして、物取りの線は考えにくかった。〝誰でもいいから人を殴りたかった〟という通り魔的犯行の可能性もゼロではないが、180センチ近い大柄な男性を狙うのは、返り討ちに遭うリスクが高く合理的ではない。逃走しているので、逮捕されることが目的の犯行とは考えにくい。やはり荒川を痛めつけること自体が目的だったと考える方が自然だ。しかし、その証拠はどこにもなく、断定することはできない。警察の捜査は難航し、ついに犯人を特定できなかった。
■大洋フロントが仕掛けた〝ドラフト破り〟
怪我から回復した荒川は、騒動から距離を置くようにアメリカに練習環境を求めた。翌年のドラフト直前まで交渉権を持つ大洋は、現地でも入団交渉を続けたが、荒川の意志は変わらず。首を縦に振らなかった。
春、ドラフトの目玉候補たちは、プロのユニフォームに袖を通した。そして、谷沢健一(やざわけんいち)はそのバットがプロで通用することを証明、上田二朗は開幕からローテーション入り。太田幸司は1年目からオールスターに選出された。対照的に、回り道をすることになった荒川に関する報道はしばらく途切れていた。ところが、ペナントレース終盤の時期に、不思議な見出しが新聞紙面に躍った。
「荒川、大洋と奇妙な契約」(『毎日新聞』1970年10月9日付朝刊)
頑なだった荒川が、その年のドラフト直前(10月7日)に大洋入団に同意したのである。荒川は、記者団にこうコメントした。
「悪いようにはしないといわれ、大洋と契約した」
「ただし、あすの入団会見には出席しない。大洋のユニフォームを着ることもない」
これはどういうことか?
大洋は水面下でヤクルト、巨人と交渉を進め、荒川に直後のトレードを前提とした入団を持ちかけていたのだ。
これは荒川にとっても悪い話ではなかった。その年のドラフトでも、意中の球団に入れる保証はない。形式的に大洋の練習に参加した後、同年12月26日、金銭トレードにより、この年から早稲田大学出身の三原脩(みはらおさむ)を監督に迎えるヤクルトへの移籍が発表された。入団したばかりの新人が即トレードに出されるのは極めて異例の出来事だった。
■プロでは力を発揮できず。その衝撃的な理由は?
この一連の強行策は、ファンや他球団から激しく批判された。セ・リーグはドラフト制度の根幹を揺るがすやり方を問題視し、荒川に翌1971年シーズン開幕直後から適用される公式戦出場停止1カ月というペナルティを科した。念願のヤクルトのユニフォームを着た荒川は、処分が解けた1971年5月、対巨人戦でデビューした。背番号は「3」だ。1年目は66試合に出場、打率.242、53安打、6本塁打、28打点。新人王を獲得した谷沢のデビュー1年目(1970年)の成績、126試合出場、打率.251、107安打、11本塁打、45打点に大きく及ばなかった。やはり、ブランクのツケが響いたのか。ただし、翌1972年には3番打者に定着し、18本塁打を放つなどまずまずの活躍を見せた。端正な顔立ちも相まって人気は抜群で、1972年のオールスターファン投票三塁手部門では、最終投票で8,819票と、長島茂雄(10,697票)に肉薄した。
1973年の7月より養父・荒川博がヤクルトのコーチに就任した。この人事は、打撃の立て直しが目的であったとともに、荒川がセ・リーグの顔になるスターに成長していくことへの期待の現れだといえる。ファンも背番号「3」が70年代のヤクルトを引っ張っていくと信じただろう。しかし、あの忌まわしい事件が荒川の野球人生に黒い影を落とす。プロ3年目、荒川の成績は伸び悩む。何者かに襲われた際の後遺症で、視力が徐々に低下していたのである。精密検査の結果、「左視束管損傷」と診断される。最新治療を試みても回復せず、苦し紛れに左打者への転向を試したが奏功せず、なにより守備に支障が出た。
■志半ばで父が監督を務める球団を去る
視力低下というハンデを負った荒川は、入団5年目の1975年シーズン開幕直後、監督に就任していた養父・荒川博の期待に応えることができないまま、ユニフォームを脱ぐことになった。まだ27歳だった。引退後の荒川は、映画会社から俳優としてスカウトされ、テレビ局からのオファーも相次いだ。一度はテレビドラマに出演もしたが、本格的に芸能界入りすることなく、バッティングマシンやスピードガンなど野球用品を扱う会社を起業し、自ら営業に奔走して成功を収めた。もし、すんなり大洋へ入団していたら、荒川の野球人生はどうなっていただろうか。
時代は変わり、価値観も変容した。菅野智之でさえ、今ではあれほど固執した巨人のユニフォームを脱ぎ、メジャーでのびのびと投げている。プレーできる舞台は大きく広がったのだ。だが、荒川堯の時代、日本のプロ野球選手志望者に与えられた選択肢はわずか12。若者たちの運命は、ドラフトという制度に翻弄されていたのである。

荒川は入団5年で引退することになった