×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

強行指名を拒否したドラフト1位の新人は、なぜ襲われたのか? プロ野球暗黒史【荒川事件 前編】

世間を騒がせた事件・事故の歴史


1970年15日の夜、前年のドラフトである球団から1位指名を受けたものの入団を拒否していた若者が、闇討ちに遭い、激しい暴行を受けた。日本プロ野球にこんな黒歴史があったのである。


 

■江川騒動以前に起きたドラフトを巡る事件

 

 プロ野球の新人選手選択会議──いわゆるドラフト会議は野球に夢を託した若者の将来を決める儀式である。逆指名制度の導入·廃止を経て、今日では、「巨人以外の指名はお断り」「パ・リーグには行きたくない」といった頑な姿勢を見せる新人選手は減っている。2011年、日本ハムの強行指名を受けたものの入団を拒否し、浪人を経て翌年巨人入りを果たした菅野智之が最後の目立つ例だろうか。巨人戦が毎日のように地上波でテレビ放送された時代は遠い昔なのだ。パ・リーグが忌避(きひ)される傾向もかなり薄まっている。MLBで輝かしい実績を誇る野茂英雄、イチロー、松坂大輔、ダルビッシュ有、田中将大、山本由伸、佐々木朗希らは、ドラフトで指名されたパ・リーグ球団にスムーズに入団した経歴の持ち主だ。

 

 ただ、過去には巨人入りを強く希望した〝怪物〟江川卓が、1位指名された阪神に、巨人への交換トレードを前提として入団したというケースがあった。強引に巨人入りした江川は激しいバッシングを受けた。さらに、江川騒動の約10年前には、ドラフトにまつわるさらに衝撃的な出来事があった。意中の球団になんとしても入団したいと望んだ有力新人選手が刑事事件の被害者となった「荒川事件」である。

 

■王貞治を育てたコーチの息子がドラフトの目玉に

 

 かつて、東京六大学野球は、今日では想像もできないほど人気が高かった。特に1960年代後期、のちにプロで活躍する選手が多く在籍した時代は、大変な盛り上がりを見せた。1968年には、法政大学の田淵幸一(阪神)と山本浩二(広島)、明治大学の星野仙一(中日)らがプロ入り。そして翌1969年、早稲田大学の谷沢健一(やざわけんいち)と荒川堯(たかし)が、六大学のスターとして注目された。

 

 長野県に生まれた荒川堯は、読売巨人軍の打撃コーチとして知られる荒川博(ひろし)の養子である。実の両親もとで育てられていた中学時代、長野を訪れた荒川博にその非凡な野球センスを見出され、都内の荒川家に預かる形で英才教育を受けることになった。上京後は、王貞治や荒川博の母校である名門・早稲田実業へと進学する。荒川家には、王が頻繁に指導を受けに訪れ、天才打者・榎本喜八(東京=現・ロッテ)も顔を出していたという。そんな刺激的な環境で、堯はプロ入りを夢見て鍛錬を重ねた。また、子どものいなかった荒川夫妻の希望により、高校2年時に正式に養子となり、「荒川堯」となった(以下・荒川)。

 

 早稲田大学進学後、荒川はショートを守り、4年間で打率336厘、19本塁打と大活躍し、同期の谷沢とともに「早大のON」と称された。遊撃手の守備を器用にこなす強打者として、プロのスカウトから大きな注目を集めるのは必然だった。

 

 荒川はプロ入りを希望し、養父が在籍する巨人か、馴染みのある神宮球場を本拠地とするヤクルト(*1)以外の球団からの指名は拒否する旨を公に表明した。当時、巨人はポストON世代の主砲候補として荒川獲得の意志を強く持っていた。荒川親子が同一チームに所属することも話題性が大きく、宣伝効果も期待できた。ヤクルトは大杉勝男の移籍以前で、若松勉の入団前。スター選手不足解消の意味でも荒川は魅力的な素材だった。

 

1 1969年の球団名は「アトムズ」、1970年は「ヤクルトアトムズ」。混乱を避けるため、以下は便宜上「ヤクルト」で統一。

 

■抽選結果は荒川の巨人、ヤクルト入団を遠ざけた

 

 ドラフト会議は19691120日に開催された。その年の目玉候補としては、荒川、即戦力強打者と期待された谷沢のほかに、三沢高のエースとして甲子園でブームを巻き起こした太田幸司、大学ナンバー1投手と評価された東海大学の上田二朗らがいた。また、当時は目立つ存在ではなかったが、社会人チーム・クラレ岡山の門田博光もドラフト対象の新人だった。

 

 ドラフトの制度はたびたび改正されているが、当時は「変則ウェーバー」と呼ばれ、前年の順位は影響せず、まず全12球団が「予備抽選」で指名順を決める方式だった。1位・3位・5位などの奇数順位の指名は予備抽選順位の昇順(1番→12番)、2位・4位・6位などの偶数順位の指名は降順(12番→1番)で行われた。指名した時点で交渉権を獲得するため、抽選で上位を引いた球団ほど有力選手を獲得しやすい仕組みだった。

 

 予備抽選の結果は、1番が中日、2番が阪神、3番が大洋(現・DeNA)。以下、南海(現・ソフトバンク)、西鉄(現・西武)、近鉄(2004年消滅・オリックスへ統合)、東映(現・日本ハム)、広島、ヤクルト、ロッテ、巨人、阪急(現・オリックス)の順だ。ヤクルトと巨人が下位となったことは、荒川にとって明らかに好ましくない状況だった。9番のヤクルトより前にどこか別の球団が自分の名前を呼んだ時点で、望んだ道が遮断されるからだ。

 

■谷沢は中日、上田は阪神、太田は近鉄、荒川は?

 

 注目の1位指名では、予備抽選1番の中日が谷沢を指名。 2番の阪神は相思相愛だと見られていた太田ではなく、即戦力となりそうな上田を指名した。 3番の大洋は上田を狙っていたとされるが、阪神にさらわれたことで思い切った決断を下す。指名したのは太田ではない。入団拒否を承知のうえで、荒川の強行指名に踏み切ったのだ。

 

 当時、大洋は遊撃手を固定できていなかった。 打撃の柱にもなりうる荒川が加入すれば大きな戦力アップになる。球団代表の森茂雄は元早稲田大学野球部の監督であり、当時の同野球部監督・石井藤吉郎、荒川博は教え子だった。いわば外堀を埋めるかたちで、切り崩せると判断したのである。この大洋の指名こそが、荒川にとって残酷な運命の分かれ道となった。

 

 なお、注目の太田は近鉄が、ヤクルトは仙台商業高校の八重樫幸雄(やえがしゆきお)を、巨人は荒川のチームメイトである早稲田のエース・小坂敏彦(こさかとしひこ)をそれぞれ1位指名。巨人は2位で早稲田の捕手である阿野鉱二(あのこうじ)も指名しており、荒川の心中が複雑だったことは容易に想像できる。

 

■大洋入りを拒否した荒川が襲われた!

 

 近畿地方出身の上田は阪神の指名を喜んだ。在京セ・リーグ、特に巨人を望んでいた谷沢は中日と、阪神からの指名を待っていたといわれた太田は近鉄と、それぞれ交渉のテーブルについた。しかし、荒川は大洋入りを即刻拒否。大学卒業後に浪人することを早々に表明した。当時のルールでは、社会人チームに進めば3年間は再びドラフト対象になれなかったが、どこにも所属しない浪人であれば、翌年も再び指名を受けることができた。荒川はこの道を選び、改めて翌年のドラフトで巨人またはヤクルトからの指名を待つつもりだった。のちの江川卓、元木大介、菅野智之と同じパターンだ。

 

 浪人表明は一部で反発も呼んだが、本人の意志は揺るがなかった。ところが、ドラフトから約2カ月後の197015日の夜、まだ大学在学中だった荒川は、誰も予想ができない事態に見舞われた。愛犬を連れて自宅周辺を散歩中、2人組に突然襲われ、棍棒のようなもので頭部を殴打されるなどの激しい暴行を受けたのである。理不尽な暴力を受けた荒川は、その後、奇妙な契約を結ぶことになる。

 

後編に続く

 

六大学野球の聖地・明治神宮野球場

KEYWORDS:

過去記事

ミゾロギ・ダイスケ 

昭和文化研究家、ライター、編集者。スタジオ・ソラリス代表。スポーツ誌編集者を経て独立。出版物、Web媒体の企画、編集、原稿執筆を行う。著書に『未解決事件の戦後史』(双葉社)。

最新号案内

『歴史人』2025年11月号

名字と家紋の日本史

本日発売の11月号では、名字と家紋の日本史を特集。私たちの日常生活や冠婚葬祭に欠かせない名字と家紋には、どんな由来があるのか? 古墳時代にまで遡り、今日までの歴史をひもとく。戦国武将の家紋シール付録も楽しめる、必読の一冊だ。