南北戦争・ゲティスバーグの戦い 攻める南軍、しのぐ北軍……2日目の戦闘の推移
軍事史でみる欧米の歴史と思想
■1863年7月2日の戦況と両軍の戦術
1863年7月1日から北部領内のゲティスバーグで始まった戦いは、翌2日に南北両軍の規模と激しさを増した。1日の夜から2日の朝にかけて、南軍にはジェームズ・ロングストリートの第1軍団が到着したし、北軍には3個軍団が到着したからである。その結果、2日当日の南軍の兵力は約5万人となり、北軍の兵力は約6万人となった。兵力の点で劣勢であったにもかかわらず、南軍司令官のロバート・リーは、北軍の逆U字型陣地の南西方向から攻撃することにした。攻勢の主力は「リーの右腕」が率いる新着の第1軍団となる。
ただ、「リーの右腕」ロングストリートが、第1軍団の攻撃準備や移動で時間を取られたため、戦闘開始が夕方まで遅れた。そのため、北向きに陣取っていた北軍左翼の側面か背後をすり抜けて攻撃できるはずが、北軍のダニエル・シクルズ軍団の真正面から攻撃する羽目になったのである。ともあれ、リーからロングストリートへの命令が梯形陣による攻撃であったため、第1軍団は、集中砲台からの砲撃後、南から順に襲い掛かることになった。
南軍第1軍団の最南端に位置していたフッド師団は、午後4時ごろに出発し、「悪魔の巣窟」と呼ばれた岩地で肉弾戦を演じた後、さらに東の小円丘にいた北軍にも挑みかかった。だがここで待ち構えていた北軍の連隊は、三度にわたるフッド師団の突撃にしぶとく持ちこたえ、南軍を丘のむこうの「悪魔の巣窟」にまで追いやった。
次に、フッド師団の北隣に位置していたマクローズ師団は、午後5時ごろに進撃を始め、桃林を守る北軍を圧倒し、東隣の麦畑まで押しこみ、ここで肉弾戦を演じた。しかし肉弾戦で戦力を消耗したマクローズ師団は、小川の手前で北軍のシクルズ軍団に食い止められることとなる。とはいえ北軍側も、シクルズ支援のために北から兵士を派遣していた。
そのため手薄になった北軍中央のハンコック軍団に、南軍第3軍団所属のアンダーソン師団の3個旅団が駆け足で接近した。ある旅団は丘の頂上にまで攻め上がり、北軍の背後まで見下ろせた。必死のハンコックは援軍の連隊に反撃を命じ、多くの犠牲を出しながらも時間稼ぎに成功し、新たな防衛線を構築できた。ゆえに攻めあぐねた南軍は後退した。
最後に、北軍の逆U字型陣地の北端(U字の底辺)へ、南軍第2軍団所属の2個師団が襲い掛かった。丘と丘の間の鞍部を攻めたアーリー師団は特に順調で、北軍側の戦列を破りまでした。しかし南軍には後詰めが無く、北軍の反撃もあったため、南軍は北軍の背後にまでは回り込めなかった。以上のような戦況を総括すると、梯形陣による攻撃は、敵陣の防衛を混乱させる効果をもつが、自軍の戦力集中にも悪影響をもたらすと考えられよう。なお、2日夜の北軍の幕僚会議では撤退も検討されたが、軍団長らは踏み止まることを選んだ。

ジェームズ・ロングストリートは、南軍司令官のロバート・リーの片腕だった。ゲティスバーグの戦いにおいてはロングストリートの行動に対する批判も多く、彼の言動の是非について長らく議論が交わされてきた。
アメリカ議会図書館蔵