信長の妹婿である細川信良(昭元)が有した「権威」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第91回
■足利幕府の管領家という「権威」

織田信長に対して足利義昭が挙兵した地として知られる槇島城跡の石碑(京都府宇治市槇島町)。義昭が追放された後、信良は信長から山城国守護に命じられて入城している。
細川信良(ほそかわのぶよし/昭元)は、室町幕府における名門の細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)を継いだものの、群雄割拠する乱世の時代であったため、一般的にその存在を知られていないと思います。
信良が家督を継いだころには、家臣の三好長慶(みよしながよし)との権力闘争に敗れ、細川家は弱体化していましたが、足利義昭(あしかがよしあき)が幕府を再興すると重用されるようになります。
信長からも幕府の名門として厚遇されていたものの、秀吉の時代になると無実の罪により捕縛されるなど扱われ方に変化が起きていきました。
これは信良の持つ京兆家という家柄の「権威」が関係しています。
■「権威」とは?
「権威」とは辞書によると「強制的な力ではなく、専門知識や地位、経験を持つ人や組織に対して人々が自発的に従おうとする社会的な力のこと」とされています。似た言葉である「権力」は「強制力を伴い、他者の意思に反してでも支配・服従させる力」とされています。
一般的に、人々を従わせるには、絶対的な「権力」を見せつつ、一方で「権威」を用いて自発的な従属化を図る傾向があります。
信良は往年のような勢威を失っているものの、その「権威」は利用されていきます。
■細川家の事績
細川家は足利義季(よしすえ)が三河国額田郡細川郷を領して名乗ったのが始まりとされています。足利尊氏(たかうじ)に従い室町幕府の樹立に貢献した事で、細川一門にて8ヵ国の守護を任されるようになります。
細川頼之(よりゆき)が3代将軍義満(よしみつ)を補佐する管領となり活躍すると、斯波(しば)家と畠山家と共に代々管領職を担う名門の家柄となっていきます。頼之から始まる家系が、細川家の宗家とされ、京兆家と呼ばれるようになりました。
室町時代後期には、11代京兆家の勝元が山名宗全と対立して、11年も続く応仁の乱を起こします。
12代当主の政元(まさもと)は、10代将軍義稙(よしたね)を廃して幕府の実権を握っています。このころの細川家の勢威は他の管領家を凌ぎ、将軍に匹敵するほどに高まり、半将軍と呼ばれるほどでした。以降は細川家が管領を独占していくことになりました。
しかし、政元に実子がいなかったため、後継者争いが起こり、細川家は弱体化していきます。
その混乱の中、細川家の家臣であった三好長慶をはじめとする三好家が幕政の実権を握るようになりました。信良が19代当主となったものの、三好家の傀儡として、その家柄を利用される存在となっていました。
以降、足利将軍に次ぐ管領である信良の家系は、ある種の「権威」として扱われていきます。
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