「貨幣の統一」を試みた田沼意次の先見性
蔦重をめぐる人物とキーワード⑦
貨幣の不統一や、金銀貨幣の交換の複雑さを、抜本的に解決しなければ円滑な経済活動は望めないと考えた意次は、1772(明和9)年に貨幣の統一を目指す新たな政策を打ち出した。それが「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」という銀貨の発行だ。南鐐二朱銀とは、金1両=8枚という交換レートを明確に定めた、純度の高い銀貨のこと。
南鐐二朱銀もまた商人の反発を招いたが、高い実用性が評価され、次第に普及していったという。「五匁銀」の反省を踏まえて、銀貨の質の高さや価値の固定化にこだわった点が、受け入れられた理由と考えられている。
しかし、意次は金貨の使用を促進した一方、既存の秤量貨幣を禁止することはしなかった。そのため、かえって通貨制度が複雑化し、混乱を招いたとの指摘もある。
意次の貨幣制度の見直しは失敗と見なされることが多い。しかし、「南鐐二朱銀」のように後年になって普及し、一部で評価に値する利便性をもたらしたことは、のちの明治新政府による新貨条例の足がかりになる重要な取り組みだったともいえる。近年では、意次の狙いが時代を先取りしたものだったとする評価も注目を集めている。