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策に溺れる? 軍師・陳宮は、なぜ呂布に信用されなかったのか

ここからはじめる! 三国志入門 第106回

■呂布が信用していたのは誰か?

 

 呂布が晩年、参謀として頼りにしたのは「呂布伝」を見る限り、地元(徐州)名士の陳珪(ちんけい)、陳登(ちんとう)親子だったようだ。しかし、彼らはもとより呂布に従う気はなく、早くから曹操と気脈を通じていた。

 

 陳親子は呂布に協力するどころか、袁術との仲を裂いて孤立させるよう画策。陳登は曹操から広陵太守の地位をもらい、出世を約束されるという見事な策士ぶりだった。

 

 呂布にすら謀反を企てた陳宮の狙いは何だったか。やはり曹操打倒という最終目標のため、新たに盟主を立てようとしたのか。あるいは自分が徐州の支配者に立とうとしたのか。それはわからない。恩を感じたか、失策を反省したか。陳宮は、以後も呂布のため献策を続けた。

 

 198年、呂布軍は曹操軍に敗退を続け、下邳城に追い詰められた。頼みの袁術軍からの援軍の見込みも薄く、まさに詰みの状況。陳宮はまだチャンスはあると見て「呂布殿が城外へ出て、私と高順が城内を守り、内外から曹操軍を挟撃すべし」と進言。曹操軍の糧道を断ち、一網打尽にする良策と見えたが、却下された。呂布の妻が「陳宮は信用できません」と耳打ちしたからという。

 

 結局、援軍もないまま籠城戦が続き、呂布軍は敗色を濃くしていく。呂布はついに楼門から降伏を呼びかけるほど弱気になるが、陳宮は「曹操に降伏するのは、石に向けて卵を投げるようなもの」と徹底抗戦を唱える。だが信頼関係が崩れた主従の間に交わされる言葉は、どこか虚しく響いた。

 

■結局、陳宮は何がしたかったのか?

下邳城が落ち、曹操の前に引き出される呂布(左)と陳宮。三国志演義連環画より

 

 3ヶ月の籠城戦に耐えた呂布軍だが、もう我慢も限界だったのだろう。呂布の部下、侯成たちがついに陳宮を捕縛し、彼を手土産に曹操のもとへ降った。それが決め手だった。陳宮捕縛の知らせを聞いた呂布は、あっさりと楼門を下りて降伏を申し出るのだ。

 

『三国志演義』では呂布は居眠りしている隙に侯成らに捕縛される流れだが、正史(呂布伝)では捕縛されたのは陳宮だけで、呂布は自分から降伏したと書かれている。

 

 曹操の前に引きずり出された陳宮。「なぜこうなったと思う?」と曹操が問えば、陳宮はそばに座す呂布の顔を見て答える。「この男が私の言うことを聞かなかったからだ」。そう吐き捨て、みずから刑場へ向かった。曹操は陳宮を涙ながらに見送ったという話は『典略』にある。美談として伝わる陳宮の最期だが、呂布はどう感じていただろうか。

 

 陳宮には『三国志』に独立した伝がない。魏志の呂布伝や荀彧伝をはじめ、『典略』や『英雄記』に断片的な記録があるだけだ。そのためか、彼の本当の狙いが何だったのか腑に落ちないところが多い。

 

 曹操に従わず、せっかく盟主に立てた呂布とも信頼関係を築けなかった陳宮。荀攸が評したように、彼は軍師としては一流とはいえなかったのだろう。どこまでも己の志に忠実で「策士、策に溺れる」を体現した男ともいえよう。ただ、それだけに面白さがあり、その気概は乱世にあっても異彩を放った。だからこそ彼は『三国志演義』で短くも輝ける場を得たのだろう。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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