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謎に包まれた源頼朝の死因に、義経の亡霊が関わっていた!?

鬼滅の戦史58


武家政権の創始者・鎌倉殿と呼ばれる源頼朝は、正治元年(1199)に53歳で死没する。謎とされる源頼朝の死因は、落馬した際に負った傷が原因と言われることがある。しかし、落馬したのは、頼朝が死に追い詰めた義経が亡霊となって姿を現したからだとも一説には伝えられている。それは果たして本当なのだろうか?


義経が怨霊となって頼朝に祟った?

 

壇ノ浦にある「八双飛び姿の義経像」 撮影/藤井勝彦

 源義経(よしつね)が化けて出た…と言えば、「そんな馬鹿な」と思われるかもしれない。しかし、「化けて出た」のである。少なくとも、義経を毛嫌いして死に追いやった頼朝にとっては、「化けて出た」と思われたに違いない。それがもとで死を早めてしまった形跡があるからだ。その経緯を振り返ってみよう。

 

 事件が起きたのは、11981227日。源頼朝の妻・北条政子の妹(稲毛三郎重成の妻)の供養のために架けられた相模川橋(現在の相模川の東1.5㎞にあった)へ、その供養式典に出かけた時のことである。頼朝が橋に差し掛かるや、突如、馬が何かに怯えるかのごとく棒立ちとなった。そのため、乗っていた頼朝が振り落とされて負傷。その半月後の1月13日に亡くなってしまったのだ。

 

 ここから鑑みれば、この時の傷がもとで亡くなってしまったことは間違いない。「水神に領せられて~」(『承久記』より)というように、馬ごと相模川に転落して、大量の水を飲んだことが死につながったとも考えられる。馬が驚いたというより頼朝が驚いたことで、馬の手綱捌きを誤ったのではないかと見なすこともできそうだ。

 

 さらには、『保暦間記』や『北条九代記』に記されたように、頼朝が八的原(やつまとがはら)に差し掛かった時に、弟の義経と叔父の行家、源義広(志田義広)らの亡霊までもが現れて、それに驚いた馬が暴れ出したことに起因すると伝えられることもある。

 

 稲村ヶ崎に差し掛かった時に、壇ノ浦に沈んだ安徳天皇の亡霊が現れたことで頼朝が失神した可能性があることは、前回の記事ですでに触れておいた。いずれにしても、心にやましさを抱える頼朝にとっては、見えるはずもない義経らの亡霊が見えたのだろう。

 

「源氏雲浮世絵合 真木柱」一勇斎国芳筆 国立国会図書館蔵

義経を恐れた頼朝の思いとは?

 

 それにしても、頼朝はなぜ、弟である義経を死に追いやるほど毛嫌いしたのだろうか? 本来、義経こそ、平家一門を滅亡へと追いやった最大の功労者であったはずである。平家を京の都から追い出した源義仲を宇治川の戦い(1184年)によって敗走させたのも義経。逃げる平家を一ノ谷の戦い(1184年)や屋島の戦い(1185年)で追い詰め、最後の戦いの舞台となった壇ノ浦で平家一門をことごとく海に沈めてしまった(1185年)のも、義経の死をも厭わぬ働きあってのこと。

 

 源氏の総帥・頼朝としては、その功を称えて快く迎え入れてやらなければならなかったのに、頼朝にはそれができなかった。死をも顧みず猪突猛進、それが空前絶後とも思える成果を生み出した義経、その栄光があまりにも眩し過ぎたことが問題であった。

 

 詰まる所、自らの地位を脅かされる危惧を抱いたからに他ならない。後の災いを招く前に、葬っておくべきとの打算的な思いが、義経討伐へと突き動かしたのだろう。結局、頼朝に忖度した藤原秀衡(ひでひら)の息子・泰衡(やすひら)が、衣川の戦い(1189年)で義経を攻撃。義経を自害に追い詰めたのである。自害する前には、正妻の郷御前(さとごぜん)と4歳の娘まで自らの手で殺害せざるを得なかったというから、何とも憐れである。

 

義経の首実験をしたであろう、源頼朝肖像 模者不詳 東京国立博物館蔵/ColBase

語り始めた義経の首

 

 この後、義経の首は、黒漆塗りの櫃(ひつ)に収められ、美酒を満たして鎌倉へと運ばれたという。運んだのは、新田冠者高平(にったかじゃたかひら)で、43日もかけてようやくたどり着いたとも。

 

 腰越の浜で和田重盛や梶原景時らが見守る中で首実検が行われたものの、黒く焼け焦げていた上、腐敗が進んで、見るも無残な様相であったといわれる。本人かどうか判別し得なかったことで、各地で語られるような義経伝説に結びついたことはご存知の通りである。

 

 ただし、藤沢に伝わる首洗戸の伝説によれば、腰越の浜に捨てられた首を金色に輝く亀が拾い上げ、境川を遡って藤沢宿の川辺に運び込んだとか。この時、あろうことか、首が里人に語りかけたという。悪人に殺された挙句、首さえも投げ捨てられたことに対して恨みつらみを述べた後、丁重に葬ってほしいと。これに里人が応えて、洗い清めて葬ったとも。首を洗った場所が、現在の藤沢市の公園の片隅にひっそりと残された首洗い井戸で、葬った場所がその脇にある源義経公之首塚であった。

 

 これらの伝承がいつから語られるようになったのか定かではないが、頼朝が義経を自害に追い込んだ後、その怨霊に怯えていたことは間違いない。藤原次郎清親に命じて、首塚近くの亀の子山に祠(ほこら)を建てて義経の霊を祀ったというのが、その証といえるだろう。

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過去記事

藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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