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家茂はなぜ尊王攘夷と戦ったのか? ~ 14代将軍・徳川家茂 ~


徳川幕府にとって重要な契機となった「公武合体」。その主人公となったのが14代将軍・徳川家茂である。彼は公武合体、長州征伐など、波乱に満ちた将軍人生を歩んだ徳川将軍のひとりである。周りに嘱望され将軍に就任したものの、いばらの道を歩んだ家茂の人生を追う。


 

相次ぐ「変」「事件」「騒動」…不安定な世情に“将軍位”の無力さを知る

烈強の開国要求、尊王攘夷運動の激化、雄藩の台頭、長州征伐など激動の時代を生き抜いた家茂。徳川15代将軍中、もっとも心労が絶えない将軍だった。イラスト/さとうただし

「南紀派」の御輿に乗っていた紀州徳川・慶福(よしとみ)は、弘化3年(1846)生まれ。嘉永2年(1849)に、僅か4歳で紀州徳川本家を継いだ。13代将軍・家定の世嗣問題が起きた頃には、まだ12歳の少年であり、慶福あらため家茂(いえもち)として正式に14代将軍となったのは、安政5年(1858)10月、13歳の時であった。

 

 井伊大老が取り仕切る幕政は、背後では朝廷などを巻き込んでの政局が渦巻き、「尊王攘夷」「安政の大獄」などの最中にあった。これらは少年将軍・家茂とは無縁の出来事であったが、それでも将軍である。どういう行動に出ればよいか。先ず、こうした悩みから家茂の治世は始まったのである。

 

 安政6年、幕府は神奈川・長崎・箱舘の3個所の湊を開放し、外国5カ国との自由貿易を許可した。安政という年号が、万延元年(1860)に変わった3月、「桜田門外の変」が起きて水戸浪士などによって井伊大老が暗殺されれた。その2年後の文久2年(1862)1月には「坂下門外の変」が起きて、老中首座・安藤正信が浪士に襲われる事件も起きた。この年の2月には「公武合体」の象徴として、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)が家茂の正室として降嫁した。幕府と家茂は、一橋慶喜を将軍後見職とし、いわゆる「一橋派」を登用して幕政改革に乗り出した。

 

 しかし世情はますます騒がしく不安定になり、この年の4月には京都で「寺田屋騒動」が起きたり、8月には横浜で「生麦事件」が起きたりしている。さらに翌年には「薩英戦争」も勃発する。こうした最中の文久3年3月、家茂は上洛した。3代将軍・家光の上洛以来、200年ぶりの将軍上洛は、事件でもあった。なお、家茂は翌年の元治元年(1864)1月にも上洛している。

 

 幕末である。文久3年の「8月18日の政変」に続いて、元治元年6月には新選組による「池田屋事件」があり、7月には長州藩による「禁門の変」も勃発した。これが、長州征伐の引き金になる。

 

 この時期には将軍家茂と孝明天皇が望んだ「公武合体」も、挫折しつつあった。慶応元年(1865)閏5月、家茂は上洛して朝廷への参内を果たした。家茂は、長州藩を牽制する目的もあって、その後大坂城に入った。将軍自らが長州遠征を果たすという態度を示したのだが、長州藩は歯牙(しが)にも掛けなかった。家茂は「将軍位の無力さ」を知らされたのであった。

 

 慶応2年1月、薩摩と長州が同盟を結んだ(薩長同盟)。だが、幕府はその事実を知らない。知らないまま6月には第2次長州征伐が開始されたが、諸藩は積極的ではなかったし、薩摩藩は出兵しなかった。第2次征伐戦は、幕府郡の敗色が濃厚で、この敗報が相次ぐ中の慶応2年7月、家茂は大坂城で21歳の不幸な生涯を閉じた。そして同じこの年12月には、孝明天皇も逝去する。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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